何と申しましょうか
- 2012年01月16日
- ごじゃっぺ高座
実家は7人家族だった。両親と兄弟3人、そして親父の姉とその息子。生まれた時からそういう家族で育ったので何も違和感を感じなかったしそれが普通と思っていた。またおばさんには特にかわいがってもらったという記憶がある。よしゑという名前だったので母親たちはよっちゃおばさんと呼んでいた。私はどういうわけかおばさんという発音が出来ず「おんばん」と呼んでいた。中学のときに家を出て住宅に住み、その後、従兄弟が結婚をして家を建ててそこに住むようになった。私が大学を卒業するころに亡くなった。そのときまで「おんばん」と呼んでいた。
おんばんの仕事は病院の給食婦。近くに辰野病院があり、そこで働いていた。交代で休みをとり、おんばんは土曜日が休み。土曜日は7人全員で食事をする。普段は病院で朝昼晩と食事をしてから帰ってくる。夜母親によく病院の話をしていた。話やすかったのかしら。看護婦長がきつい人で、給食を見て、豚のえさかといってどなりこんでくるとか。栄養士さんがいるので、そのレシピ通りに作っているのだが、、、こんなことも話してくれた。ツメを切ったことがないと、、、いつもお米を研ぐので程よくツメがのびないとか。
忘れられない話もある。病院で忘年会だか、新年会の時、事務長が酔っぱらってズボンを脱ぎ、スッポンポンになって看護婦とか事務員にずり寄ってくる。そんな話もしてくれたっけ。その時の記念撮影も見せてもらった記憶がある。宴会の前に記念撮影をすればいいのに、お開きの時に撮影をしたので、へべれけでスッポンポンの事務長がまん中で胡坐をかいて座っている。そこに誰かが座布団を置いて撮影。素面になった時、あの写真を見て事務長はどういう反応を示しただろう。今から50年ほど前の思い出だ。
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