今年を振り返って ➂従姉妹との別れ
- 2011年12月28日
- ごじゃっぺ高座
6月に伯母さんから突然の訃報連絡。従姉妹は乳がんだった。
歳は私よりひとつ下。実家の近所だったので小さいころからよく遊んだ。結婚して埼玉県に住んでいた。ご主人も同郷でもあり、私の高校の先輩。従姉妹の親父からは、私が親戚で一番近いので何かあったら頼むと言われていた。まさかこんなことになるとは、、、
毎年の盆暮れには里帰りで実家や従姉妹の家にもお互い顔を出していた。昨年の4月の御柱にもやってきて、従姉妹の実家で私の家族も含め全員で記念撮影をした。その後お盆に会おうと約束をして別れた。お盆には来なかった。伯母さんが言うには忙しいとのこと。当地に戻りご機嫌伺いの電話をしたところ、病気のことを知らされた。そしてくれぐれも口外するなと言われた。私の周りにはそのような病気の方は何人もいて、皆さん例外なく健康に暮らしている。正直あまり心配はしなかった。私も従姉妹に頑張れなんていう言葉はかけられなかった。本人が一番わかっているのだから。落ち着いたら埼玉県に行くよと言って電話を切った。暮れにまたご機嫌伺いの電話をし、正月明けに一度伺いたいと言ったら、ちょっと治療で体調が思わしくないので、よくなったらこちらから連絡すると言われた。その後の大震災ですっかり忘れていた。でもしっかりと治して養生しているもんだと思っていた。
連絡が入ったあと、ご主人に電話をした。病院から安置所に移したとのことで行くことにした。従姉妹の姉夫婦も長野県から来ていた。従姉妹の子ども二人は私の子どもと同級生。気丈だった。従姉妹の顔は寝ているようであった。子ども時代のことが思い出された。ご主人に聞いたところ、乳がんの中でもたちの悪い乳がんで肺、そして頭に転移して自宅療養の時は痛みがひどく、また入院したとのこと。
安置所から埼玉県の葬祭場へ移した。従姉妹の高齢の両親は自宅待機ということにしてもらった。遠いので実家の兄も私に託すと連絡が当初あったが、小さいころから知っているので、葬儀にやってきて私と帳場を手伝った。子どもが野球をやっていたのでその関係か、親たちが多かった。
ご主人が安置所へ私が先に駈けつけたとき、何だかほっとしたと話してくれた。この歳なので、いろんな死に出くわしている。お疲れ様という死もあれば、何でという死もある。逆縁という言葉が思い出される。それにしても残されたご主人、子どもたち従姉妹の姉夫婦が気丈に接してくれたのには感慨深い。
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