公園にある慰霊塔
- 2012年08月15日
- ごじゃっぺ高座
実家のすぐ裏の高台に公園がある。宮木公園という名前かしら。テニスコートが2面くらい取れる草ボウボウの広場があり、その奥は木が生い茂っていた。小さい頃は格好の遊び場で毎日っていうくらいそこで遊んだ。木が生い茂っているところは月岡の森という。通った小学校の校歌は高木東六作曲、作詞が、、、インターネットで調べても出てこない。誰だっけ。母校辰野西小学校の校歌が「伊那路、遥かに、野は開け、豊かに実るナントカ~、月岡の森、、」そうそう、校歌に出て来る月岡の森。それが実家の裏の公園だということをかなり経ってから知った。
子どもの頃、その公園の一角に「戦没者慰霊塔」が出来た。何だかわからず、今度はそれを利用して遊んだ。今見るとそんなに大きくはないが、小さいころやけに大きく感じ、慰霊塔に上り、降りられなくなり、泣きだしたら知らないお兄ちゃんにおろしてもらった記憶がある。感謝感謝。
高校時代かしら。猫の額ほどの広場にタコ入道の形をした滑り台付きの遊具が出来た。当時はちょっと離れた保育園から、保母さんに連れられて子どもたちがよく遊びに来たようだ。そのうちに子どもの人数が減り、来なくなった。タコ入道の遊具は、これまた近所の高校生が帰りに寄って遊んで行くという、それもカップルで来るような場所になってしまった。落書きも過激。
時代とともに、無駄は遊具になった。何も作らず、ただ広場のままにしておけば、子どもたちはそれなりに工夫して遊ぶ。余計な物を作ったもんだ。それを広場の一角にある慰霊塔はずっと見ていたわけだ。
何もなかった小さいころは、公園に登っていく坂に雪が積もると、もうソリのコースになってしまった。実家にある竹藪の竹を切ってスキーの形にしてミカン箱にくっ付ける。今、スキー場で子どもたちがプラスチックで出来たそり遊びをやっているが、見ていてどうもかったるい。その坂も今ではセメントの階段になってしまい、雪が降っても遊ぶことが出来ない。それより、遊ぶ子供たちがいなくなった。
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