ごじゃっぺ高座 ごじゃっぺミーハー巡り
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ごじゃっぺ高座

林家三平さんの思い出


 倅ではなく親父の方。倅は前座の時、鈴本演芸場の玄関で放心状態で追い出しタイコを叩いていた思い出がある。名前が重すぎる感は否めないが、今以上に精進してほしい。

 さて本題。神楽坂に下宿をしたとき、近所の毘沙門天にある地下ホールで毎月5日に落語会をやっていた。当時は創作落語会と言う名前で、金馬、柳昇、米丸、円歌、三平、円右、つばめの7人がレギュラーで毎月出演。いつも真ん前で聴いていた。三平はインパクトがあった。その後、体調を崩し入院。退院して創作落語「源氏物語」を披露した。どうもここでネタおろしのようだった。金馬の娘が復帰祝の花束をやった。ご存じのように、源氏物語は最初だけで、あとはまた普通の漫談に戻ったが、どうも笑いのタイミングがずれたなあ。でまた再入院し、黄泉の国へと旅立った。亡くなった時、三平の家へ行った。林家三平と書かれた法被を関係者が着ていた。こん平が険しい顔をしていたのが印象的。当時注目されている人同士のトーク番組があり、今では考えられないが、テロップに住所まで載っていた。落語家同士のトークに三平が出演したとき、住所を覚えた。町内会の看板に訃報の張り紙「町内会会員、海老名泰一郎氏(林家三平)薬石効なく云々」と書かれてあった。

 まだ三平が元気だったころ、読売新聞に三平の落語はマンネリと書かれた。ちゃっかりそれをネタにして高座でもしゃべっていた。下宿のおばさんが「三平って頭おかしいよ」と私に言ったが、全部計算された芸なのですよ。

 昭和38年ごろ、「歌って踊って大合戦」という番組の司会を林家三平がやっていた。おもしろかったなあ。私も学校でよく三平のマネをした。当時寄席の楽屋では先輩落語家から、あんな品の無い番組の司会をやめろとよくいわれたとか。その後、子どもたちが家を建て直し「根岸三平堂」を作った。さっそく見学。ネタ帳など遺品等が展示してあり、勉強家の三平を思い出した。落語年表もあり、その中に古今亭志ん生昭和51年没となっていた。私が上京した昭和48年、週刊誌の表紙に「古今亭志ん生没」という特集があったのを思い出し、さっそく調べFAXで間違いを知らせた。後日三平夫人香代子さんからお礼の電話が拙宅にあった。後年、金馬夫妻金婚式の席に海老名香代子さんもいたので、そのことで挨拶をした。隣にはまだおかしくなる前の泰葉と小朝が座っていたっけ。落語協会圓朝祭で三平の弟子のしん平が作った人形を買った。7000円也。入れる袋が用意してなくて、こわごわ持ってきた思い出がある。拙宅の玄関に飾ってある。三平は偉大なり。

 

 

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